世代を越えてよみがえる風景 ―キム・ハク My Beloved―
11 March 2025

キム・ハクの「My Beloved」展、横浜で開催
世代を越えてよみがえる風景 ―キム・ハク My Beloved―
カンボジアの写真家キム・ハクは、2012年に本格的に創作活動を始めてから一貫して、祖国カンボジアの歴史や文化の再生と記録に関する探求を続けてきた。2014年から続く「Alive」は、1970年代からのカンボジアの内戦を逃れた人々の元を訪ね、彼らの持ち物とその物語を写真と文章で記録する、キム・ハクの代表的なプロジェクトだ。世界各地で現地制作と発表を重ね、日本でも2022年と2023年に東京と横浜で展覧会「生きる(Alive IV)」を開催した。その展覧会をきっかけに、個人的な体験を次世代と共有する対話の機会が生まれ、また日本に住みカンボジアにルーツを持つ人々を当事者の視点でサポートする任意団体「Alive」が結成されるなど、一人のアーティストの作品が、人々を結びつけ、コミュニティの記憶を未来へつなぐ活動へと有機的に広がり始めている。
その「Alive」と並行して続けられたもう一つの長期プロジェクトが、「My Beloved」だ。「Alive」がカンボジアにルーツを持つ人々との協働によってつくられるのとは対象的に、「My Beloved」は、2012年から2023年までの10年、キム・ハクがカンボジア各地を旅して撮り続けたパーソナルな旅の記録である。アナログカメラを使って「まるでラブレターを書くように」慎重に、光の時間を選び、精密なフレーミングで土地の叙情を切り取ったストレートフォトは、カンボジアに関するステレオタイプの乏しいイメージとは別の、美しいカンボジアの自然と人々の素朴な暮らしを写しとっている。また、建設ラッシュや開発によって急速に変わりゆくカンボジアの姿を記録した貴重なアーカイブでもある。
2024年11月、その集大成となる展覧会「My Beloved」が、横浜のBankART Stationで開催された。10年の年月をかけてカンボジア国内125箇所を訪れて撮影した膨大なフィルムから56点を厳選し、その長い旅路をたどるように、メコン川流域、首都プノンペン、トンレ・サップ湖流域、西南部の海岸線、の4章に分けて展示を構成した。その中にはすでに失われてしまった風景もあるという。しかし消えゆくものへのノスタルジーよりも、宝石のようなある一瞬の輝きが眼をひきつける。美術展のアートディレクションを数多く手がける林琢真がキュレーターをつとめ、会場構成を空間演出家の遠藤豊、会場音楽を作曲家・サウンドデザイナーの畑中正人という日本の第一級のクリエーターたちが制作に参加した展覧会は、静謐だが力強い故郷への情愛に満ちていて、さらにフィールドレコーディングしたカンボジアのサウンドスケープが、空間をより立体的に立ち上がらせていた。
展覧会にあわせて刊行された写真集「My Beloved」も、展示と同じ空気感を本に閉じ込めている。写真の光と風を包むような柔らかい紙を本紙に用い、カンボジアの伝統布クロマーを20種類のバリエーションで表紙に施して、手触りも温かい。グラフィックデザインを担当した林とキム・ハクの美学が貫ぬかれた、美しいオブジェのような写真集だ。会期中はBankART Stationのカフェの本棚に色とりどりの表紙を飾り、気に入った一冊を手に取る楽しさもあった。
またオープニングでは、クメール古典舞踊家のソック・ナリスとクメール古典・現代音楽家のロス・ソクンテアの二人によるパフォーマンスも披露された。長い歴史の中でクメールの古典舞踊は、14-15世紀のアユタヤ王朝の侵攻や1970年代のポル・ポト政権による虐殺等により幾度も廃滅させられた。しかし、生き残った人々の懸命な努力で復興を遂げた不滅の文化である。そのクメール古典舞踊の若き伝承者である二人は、キム・ハクの作品にインスピレーションを得て、カンボジアの建国神話といわれる竜王の姫と王子の物語をベースに、コンテンポラリーな解釈を加えた創作舞踊を披露した。古典の世界では、カンボジアの文化や精神性、自然と神話はゆったりとひとつにつながっている。そのホリスティックな世界観は、自然との連続性が希薄な現代社会への警鐘とも受け止めることができる。古典に学び、古典の可能性を現代に示したパフォーマンスは、時を越えてカンボジアの記憶の旅を続けるキム・ハクの作品テーマと深く共鳴していた。
任意団体「Alive」のメンバーであり、今回舞踊のコーディネートと詩の翻訳と朗読を手がけた松橋南里は、幼少期に家族とともにカンボジアから日本へ渡った。彼女にとってキム・ハクの写す風景は、遠い故郷のほとんど見知らぬ景色だ。しかし彼女は、その風景を「懐かしい」と呼んだ。懐かしさとは、自分とその土地をつなぐ感情だ。「My Beloved」に収められた写真の一枚一枚が、親や祖父母、もっとずっと前の祖先たちとともにある記憶の原風景を、ゆっくりと穏やかに呼び起こす。
キム・ハクは、変わりゆくカンボジアの永遠の今を写真に留める。今を生きる人々と、ずっと先の、未来の他者の記憶のために。失われゆく風景のなかにあっても変わらないもの。それは世代を越えて何度でもよみがえる、自然と人の普遍的な営みの姿である。
坂口千秋

横浜のBankART Stationで販売され「My Beloved」の書籍
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